母・弾正の横濱おもひで語り
2011年 11月 23日
沿線に由縁施設がありますので、坂の上の雲ラッピング電車が走っております。
そのような、季節の風物詩(笑)を話題にした時に、母・弾正が語った思い出バナシです。
と、言っても日露戦争の思い出ではありませんよーー!( ̄∀ ̄)
太平洋戦争が起きていた頃、母・弾正は、小学生でした。
昼休み。四脚椅子の後ろ二脚でバランスを取って遊んでいた時(私もやったなぁ~)、
横浜港の方で爆発事故があり、その爆風で、あやうく転倒しそうになったそうです。
校舎の窓ガラスが、びりびり鳴ったとか。
三菱ドックで修復を受けていたドイツの船(戦艦?)が、謎の爆発を起こしたそうです。
地元小学生(^_^;)は、「あれは、スパイの仕業に違いない!」と噂し合ったそうです。
「スパイ」って、敵性語じゃないの?と聞くと、
「その辺、記憶がビミョーなのよね。パーマかけてたし(笑)」だそうです(^_^;)
ちなみに、母・弾正の卒業した小学校から、
校舎を昭和39年に、ビフォーアフターした時、
校舎の一部から、「青い目の人形」が、出て来ました。
太平洋戦争中、隠し通したのでしょう。
それから、平成に入ってから校庭を掘削したら、横浜最古(日本最古?)のガス管の一部が発掘されたとか(゜∀゜;ノ)ノ
母・弾正は、小学校は、ガス会社の跡地に建てられた、と記憶しておりました。
ちょっと、ググってみたところ、大正時代の関東大震災の折り、初代校舎は焼失、今のところに移転したようです。
そこが、日本最初の瓦斯事業の発祥の地だったらしいです。
※ 「青い目の人形」 昭和初期、時代がきな臭くなる中、日米親善として、アメリカの宣教師が呼びかけ人となり、
日本の子供たちに贈られた人形。
(日本からも、答礼として市松人形が贈られました)
日米開戦の後、敵国の物として大半が焼却処分されてしまいました。
しかし、一部の人形は、心ある人々により、それぞれの方法で守られました。
(青い目の人形が贈られたのは、母・弾正が生まれる前だったので、彼女は自分の学校に人形があったことも知らなかったようです)