武田軍の足軽大将リューザキ弾正、通称リュー弾♪またの名をカラボリーナ・ドルイスカヤ(爆)最近、草弾師匠という官位(笑)も授かりました☆ 諸国、諸時代、諸かるちゃーを 徒然なるままへめぐります


by リューザキ弾正
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カテゴリ:ニホンのレキシ♪( 16 )

久々の歴史ネタです(^^;)

明治26年、大日本帝国憲法が発布されました。
近代国家が本格稼働したのですが、もちろん、想定しなかった不備もあった訳です。
そのひとつが、「国・公共に責任あり」です。

明治26年から39年にかけて、後の中央本線が開通していきました。
鉄道が開通して、しばらくして、機関車の噴煙などで、思わぬ被害が出ました。
中央本線脇にあった、戦国時代、武田信玄が旗を掛けた松の木が、
大正3年に、枯れてしまったのです。
政府は、歴史的文化的価値のある自然物に対する意識は、とても薄かったようです。

土地所有者清水倫茂は、他に代えがたい歴史的な樹木が枯れるということに怒り、
なんと、大正4年、政府相手に訴訟を起こしました。
いわゆる 「信玄公旗掛松事件」 と呼ばれることになります。
裁判過程で、この老松は、武田信玄時代の松でないことが鑑定で判明しましたが、
もし、本物だとしたら、今では、考えられないほどの粗略な扱いでした。
(あ、近年でも白神山地の一件がありましたね~)

政府にとっては、公共事業が及ぼすことに、「悪」はありえない訳でして、
当然、法廷闘争となります。
この時の、憲法には、「国による一般市民への賠償」の決まりはなく、
かつてない論争となりました。
何しろ、蒸気機関車の火の粉から一般家屋燃えても、何の補償もしないくらいですから。

しかし、控訴、上告の果てに、大正8年、大審院は、国の責任を認めました。
もっとも、訴訟費用は、原告持ちとなってしまいました(異議を申立ても却下となる)
大正14年に全訴訟が終わり、原告の清水倫茂に損害賠償が支払われました。
訴訟費用がほぼ原告持ちというオマケつきとなっていましましたが、
国が、公共事業が及ぼした被害に対して責任を取る初めての判例となりました。

しばらくは、法学科の生徒にとっては、民法の勉強の際、必ず学ぶ判例だったそうです。
そして、日本国憲法が作られる時には、こういったことに対する法律も整備されました。
きちんと民法に明文化されたことによって、この事件は、まったくの過去となりました。
今は、「当たり前のこと」として、法律の教科書でも取り上げることもなくなったそうです。
ただ、「裁判の歴史」として、法曹界の足跡として語り継がれているそうです。

松のあった日野原駅には、昭和8年、「信玄公旗掛松碑」が建立されました。
その後、線路の複線化の折り、その石碑を国鉄側が費用を持ち、
丁重に、今ある場所に移設されました。(昔とは雲泥の差な訳です)
鉄道と、憲法の歴史に武田信玄あり!

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by salieri777 | 2013-12-01 08:11 | ニホンのレキシ♪

金環日蝕狂想曲

5月21日に、日本の三大都市圏で、932年ぶりに金環日蝕が観測されました。
・・・というニュース。
あれ、129年ぶりとか、いう数字は???と思われた方もお出ででしょう。

上記のように、東京・名古屋・大阪(京都)で、
同日に、金環日蝕が見れたのは、
前回は、1080年のことでした。
平安末期です。

ググってみると、松山ケンイチも中井貴一も生まれていない。
ぢゃなかった、清盛も忠盛も鳥羽ちゃんも生まれていない時代です。
その時代は・・・朕の世であるぞ by 白河帝
いや、実質、白河さんの権力掌握時代は長かったけど、
まさに、帝の折りに金環日蝕が、起きております。

当時は、庶民はビックリして、貴族は貴族で末法思想に拍車がかかったでしょうね~

ところで、今回、知ったのが、源平合戦の折りにも、金環日蝕があったことです。
富士川の合戦以降、平家ボロ負けの印象が強いのですが(源氏派としては)
唯一、勝利を収めた、水島の合戦。
現在の岡山県水島市を含む地域で、金環日蝕が起こりました。まさに合戦の最中に。
朝廷に近く、暦を知っていた平家は、日食が起きるのを知っていましたが、
源氏は知らず、動揺して、そのため敗退したといわれております。

さて、129年ぶりというのは、首都圏で観測される金環日蝕という意味です。
明治16年10月に記録されておりますが、
天変地異は人心の不安を招きます。
そこで、明治政府はあらかじめ、錦絵をつくり、「こういうことになりますよ~」と、
一般市民にお知らせしました。

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← その錦絵。
   ヤダ、光の部分と影の部分が逆になっている!ぷぷぷ。
   学者さんから理論だけ聞いてなんとなく絵にして
   配布したのでしょうね。
   事前に現象を知らせて安心させようとした錦絵が、
   今では、一服の香ばしい清涼剤に(^^;)


平安の時代の人は、明治の時代の人は、金環日蝕を見て、どう感じたのでしょうね。
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by salieri777 | 2012-05-27 09:22 | ニホンのレキシ♪
BS朝日で、「恋する惑星」というドキュメンタリー番組の再放送がありました。
エピソード1 パリ
エピソード2 ウィーン
エピソード3 東京

三組の伝説の愛の物語を、女優の貫地谷しほりさんが訪ね歩くという形態です。
パリ編の、ジュリエット・グレコとマイスル・デービスの驚きましたが、
(ジュリエット・グレコ女史が御存命なのにも、吃驚)
ウィーン編のクリムトは逆によく知っていた話でした。
しかし、東京編。こちらも、凄かった。
レーサー・福澤幸雄とファッションモデル・松田和子の恋。

知らない御名前の二人だったのですが、母・弾正が、激しく反応!
「エエエエエエエェェェェエエエエエエ!この二人が恋人!!!」

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                 在りし日のふたり

福澤幸雄、リュー弾が取り上げる時点でお気づきでしょうが、
かの福澤諭吉の曾孫。まぁ、ユキチについては、特に思い入れはありませんけど(笑)
幸雄は、フランス大使館に勤めていた父とパリに声楽を学びに来て、彼と結婚した、
ギリシャ人の母とのあいだに生れます。
第二次世界大戦後、幸雄たち一家は日本に帰ってきます。
さて、六本木にある伝説のイタリアンレストラン「キャンティ」
ここが、まだ東京のトレンド発信基地だった時代。
幸雄は、オーナーの川添浩志氏と家族ぐるみで懇意にしていたため、
自分の家の食堂のように出入りしていました。
ちなみに、、この川添浩志氏。
祖父は後藤象二郎だったりします(川添家の養子となった)

ある日、友人と食事をしていると、目をひく美しい女性が、いました。
日本人として、初めてパリコレのモデルとなり、
ピエール・カルダンの専属モデルとして活躍中の松田和子でした。
幸雄は、彼女の席に座ります。この時、幸雄、高校生(爆)
松田和子は7歳年上。
しばらくして、和子の瀟洒な自宅に出入りする幸雄の姿が目撃されるようになります。

ギリシャ人を母に持ち、パリで生まれ育った幸雄は4か国語を話し、
子供の頃に(^^;)出入りするギリシャ人から手ほどきを受けて車の運転を覚えます。
ちょ、ちょっと、出会いのエピといい、早熟すぎるでしょ!

幸雄が自分の生きる道として選んだのはレーサーでした。
彼は、慶応義塾大学を中退し、フランスでレーサーの修業を積むことにします。
学業の傍ら、エドワーズの役員としてアパレル関係の仕事をしながら、
端正なルックスを活かし、モデルもしていた幸雄。
60年代、日本の若者がビートルズ熱冷めやらない頃、友人のミュージシャンに、
「ビートルズはもう古い。時代はローリング・ストーンズだよ」と助言。
キャメル色の革製のトレンチコートに身を包む彼もまた、トレンドリーダーでした。

しかし、彼が選んだのは、勝負がすべての厳しい世界。
ハーフであること(それは孤独にしてました)
有名な家の出身者であることも、レースの前では、なんら意味をなしません。
それらが意味しない世界であることに重きを置いた幸雄。
小学生のころ、日本に帰って、周りから受けたいじめは、彼を深く傷つけていました。。
深い孤独を抱え込んだ幸雄。しかし、強がってそういう面を見せることを嫌いました。
東京とパリで、逢瀬を重ねる和子と幸雄。七歳年上で、同じく世界で活躍する和子は、
おそらく、幸雄の素顔を知る数少ない人物だったのでしょう。


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六本木のキャンティ店内にて
← これで、二十代。。。
早熟というより、老成の字句が浮かびます。


More 続きはコチラ♪
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by salieri777 | 2012-04-17 23:13 | ニホンのレキシ♪
2月11日、鎌倉市西御門の法華堂跡の源頼朝の墓塔が倒されました。
近くの白旗神社の狛犬も倒されていたそうです。
そこから500Mほど離れた鶴岡八幡宮内で、
刃物を持って暴れている男がいることが通報され、
神奈川県大和市在住・無職・46歳が逮捕されました。
(注:鶴岡八幡宮内にも、「白旗神社」はありますが、事件は西御門の方です)
容疑者は、刃物携帯は認めたものの、頼朝の墓塔破壊については黙秘しているようです。
(びびんばさん、お伝えした情報に誤りがあり済みません!) 
記事写真つき コチラ
コチラも詳しく載っております。

鎌倉一帯は、2011年に、「武家の古都・鎌倉」として、
富士山と共に、ユネスコ文化遺産への国の推薦が決まっておりました。
観光地であるとともに、歴史的史跡の多い鎌倉。
市の管理体制にも問題はあったかもしれませんが、
どのような思想・宗教・その日の気分でも、文化財の破損は許されないことです。
目撃者によると、逮捕された際、容疑者(46歳)は、刃渡り19センチの刃物を
バンダナの様な物に巻き、腰に武士のように差していたそうです(春近しの痛い人か?)

佐殿が葬られたとされる持仏堂は、法華堂となり、
現在の墓塔(とその周辺)は、江戸時代の1779年頃、
頼朝を祖とすることを主張している(^^;;)島津氏の当主である、
当時の薩摩藩・藩主の島津重豪が整備したものです。
鎌倉市では、もちろん修復を検討しており、
13日、現場を訪れた文化庁の係の方の見解では、修復可能だそうです。記事 コチラ

先年、強風で、鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れる出来事がありましたが、
天災でもやるせないのに、人災は腹立たしいばかりです。

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by salieri777 | 2012-02-14 18:31 | ニホンのレキシ♪
大河ドラマ「平清盛」記事を書こうとして、名前の表記を確認していたら・・・
面白い記述を見つけました。

藤本隆宏さんのことを書こうとして、タケーオ!のオは、夫だっけ?男だっけ?(笑)
ググって、見たところ、武夫だった訳ですが・・・その広瀬さんのwikiに、
ちょっと、目を引く記述がありました。

タケーオ!と言えば、柔道が有名ですが、
相撲も好きで、大関・常陸山と懇意にして、義兄弟となったそうです。
その常陸山が、晴れて、横綱に!067.gif

しかし、時は、日露戦争に差し掛かっており、広瀬さんは、
常陸山の晴れ姿を見ることが出来ませんでした。
広瀬さんは、戦場から、「是非、横綱の写真を送ってくれ」と常陸山に頼みます。
常陸山は、喜んで、写真と手紙を送りますが・・・
届いた時は、閉塞作戦失敗後で、広瀬さんは戦死しておりました。
そのことを知って、横綱は、泣きに泣いたそうです。

その後、常陸山は、引退して、親方・出羽ノ海になり、一門を率いた頃、
大陸へ慰問巡業へ赴くことになりました。
慰問巡業を終え、大連から、船で日本に戻る、その時、
「大連から、広瀬さんの眠る旅順まで、近いではないか。
ここまで来て、広瀬さんの墓前で奉納相撲をしない訳にはいかない」と、急遽、旅順へ。

広瀬中佐への義を重んじたことは、思わぬ運命の展開を生み出しました。

当初、出羽ノ海一門が日本帰国のため、大連から乗る予定だった船が、
座礁、沈没。乗客乗員全員犠牲となる痛ましい事故が起きていました。
大連では、出羽ノ海一門は乗船しているものと思っているから、大騒ぎ。
無論、日本でも、ニュースが衝撃をもって伝えられ、号外まで出ました。

それが、一門全員無事に、旅順から大連に戻ってきたものだから、また大騒ぎ。
一行は、無事に日本に戻りました。

相撲界の一大勢力、名門・出羽ノ海部屋。
ことに、「角聖」とその後の世で呼ばれる、五代目出羽ノ海は、
相撲界にさまざまな変革をもたらしたと同時に、多くの優秀な弟子を送り出しました。
生まれは、水戸藩士の子息だけあって、礼儀に厳しいことでも知られておりました。
「興業」から、曲がりなりにも「国技」と呼ばれるまでに至ったのも彼の功績大です。
その出羽ノ海一門を救ったのが、広瀬中佐。
広瀬中佐がいなければ、近代相撲界の様相は変わっていたのかもしれません。
(注:この五代目出羽ノ海が、甘利にも偉大過ぎて、同じ名乗りは恐れ多いとして、
 六代目以降、「ノ」をとって、「出羽海」表記となって、現在に至っております)

・・・最近、相撲界はパッとしませんが、再び栄えることを望んでおります。。。
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by salieri777 | 2012-01-20 20:37 | ニホンのレキシ♪
信濃國には、訪れたい&再訪したいスポットが沢山ありますが、
ちと、ディープなスポットがあると聞き及びました!

茅野市神長官守矢史料館 


うわ~♪スッカスカなHPだわ(^^;)
訪問した人のブログとか何かないかしら・・・と検索して出たのが ココ(^^;;) 
甘利よくわからない・・・と書かれちゃってる(^^;;;)


では(笑)、憚りながら、私が説明させていただきます。
諏訪大社の「大祝(おおほうり)」は、代々の諏訪氏ですが、大祝は、現人神ですので、
実際に、祭祀を執り仕切っていたのは、「五官祝(ごかんのほうり)」です。
その筆頭の「神長官(じんちょうかん)」が、代々の守矢氏となります。

守矢氏は、諏訪氏より早く、この地にいた度土着信仰の祖だったようです。
興味がある方は、洩矢神と建御名方神の戦いをググって見てください(放り投げ)

さて、戦国時代、信濃國も戦乱に巻き込まれていきますが、
諏訪氏は武田氏によって滅ぼされます、実質上は。
しかし、神事は続行させなくては、ならないので、各国大名は、その後も、
神長官守矢氏宛てに、寄進、願文、寄贈品等を送っております。

ご紹介した、茅野市神長官守矢史料館には、祭事関係の品々の展示と共に、
戦国大名の書状も展示されております。
武田晴信、村上義清、長尾為景、と言った、オールスター(^^;)

また、天正10年の、武田家滅亡→本能寺の変、と忙しかった(^^;;)時期には、
酒井忠次、北条氏直、真田昌幸の書状が、まさに揃い踏み(^^;;)
戦国前にも、鎌倉5代将軍からの下し文(1246年)、など古文書があるようです。

そして、天文14年に武田信玄から寄贈された、十角重箱は、息が詰まるほど美麗です。


所在地は訪問しにくい交通の便が甘利よろしくない場ですが、是非訪ねたい場所です。
史料館の建物も藤森照信氏のデザインで、現代建築スキーにもオススメですよ~
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by salieri777 | 2011-08-17 08:35 | ニホンのレキシ♪
西行の次は、常盤御前の記事です(^^;)


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中仙道の街道沿い、関ヶ原町には、常盤御前の墓があります。

常盤御前は、源義朝の愛妾であり、今若・乙若・牛若の男子を産みます。
平治の乱で、義朝は破れ、常盤御前も三人の子供を連れて逃げますが、
京の都にいる、自分の母親が捕まったと聞いて、都に戻り、捕縛されます。


(さて・・・ここからが、問題)
一般的に知られているのが、その美貌に絆された平清盛は、常盤をくどきます。
我が子の命を助けるために、常盤は、清盛の想い人となり暮らします。
一女をもうけますが、やがては、一条大蔵卿に嫁ぎます。
平家は滅び、我が子・義経が都のヒーローになったのも束の間・・・
兄・頼朝と決裂。義経は、東北へと向かうことになります。
母・常盤は、頼朝の手の者つまり鎌倉方に取調べを受け、
その後、自らも、我が子義経の後を追い、東北へと向かおうとしますが、
賊の手にかかり、波乱万丈の人生を終えます(泣)


それで、どこが、問題なのかというと。。。
まず、最初に、常盤御前は、母親の身を案じて、都に戻っているということです。
つまり、我が子の安全は考慮していなかった。
というより、自分の命&我が子の命より、母の命を優先させたということでしょうね。
この頃、正室の嫡男・頼朝の助命が既に決定しております。
我が子には、害はないとの判断があったのかもしれません。
ですので、側室の常盤が、自分の息子たちの命を助けるため、
清盛の想い人になる必要は無い訳です。

その辺の資料もほとんどないようです。
一条大蔵卿との結婚は事実のようであり、こちらで生まれた女子は、
頼朝勢の「取調べ」時に、母と共にいたとの記述があります。
しかも、常盤御前、あっさり、義経の居所を白状しております(^^;)
(しかし、そこには既に、義経主従の姿はありませんでした)
ですので、嘘の供述をして、息子を庇ったとも言えなくもないですけど。

そして、ここから常盤御前の消息はプッツリと途絶えております。
いわゆる、貴人が想い人の後を追って東北へ向かう途中、
山中で賊に襲われ落命というのは、民話・神話・昔話パターンでよくあります。
ちなみに、常盤御前の墓と伝えられる場所は、この場所以外ににも数箇所あります。

つまり、義経の都落ちのあと、常盤御前の安否消息は完全に不明となっております。


勇猛の将・源義朝の寵愛を受け、ヒーロー義経の母であり、
息子を守るため、清盛に身を任せ、最後は都落ちの息子の後を追い、
あえない最期・・・

この常盤御前のイメージは、事実とはちょっと、違うらしい・・・
しかし、後世の人々は、常盤御前の悲劇に魅せられるようであります。



「 義朝の 心に似たり 秋の風 」  by松尾芭蕉

More ここから、大河ドラマのキャスト話となります(笑)
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by salieri777 | 2010-09-26 16:52 | ニホンのレキシ♪
母・弾正特派員の中仙道レポの続きです。
中仙道宿場に、このようなものがあったそうです。

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中仙道61番目の宿場・醒井宿にあります。
この、西行水・・・凄いエピがあります。 ちょっこし、18禁ですよん(^^;)


西行法師が、この付近の茶店で休憩を取り、一服お茶を飲みました。
西行が飲み残した茶の残りの泡を、茶店の娘が飲み干すと・・・
なんと、娘ご解任! (゜∀゜;ノ)ノ
娘は、玉のような男の子を出産(え?)
帰路、立ち寄り、それを聞いた西行、「もし、我が子なら、元の泡に戻るように」と祈念。
その途端、赤子は泡のように消え去ってしまった・・・つまり、西行の子だった(えっ?)
西行は、その子の霊をねんごろに弔った(やっぱり、思い当たる節が??)

コチラ も、ご参考になさって下さい。

さて、西行法師は、落語にもなっております。こちらは、18禁ではありません(笑)
「西行鼓ヶ滝」という、噺です。 詳しくは、 コチラ をどうぞ♪


さて・・・(笑)
再来年の大河ドラマ「平清盛」では、西行法師(佐藤義清)は、主要キャラクター、
四人のうちのひとりです。
北面の武士(この時、清盛と同僚となります)として、栄達の道半ばで、
一切を捨てて、出家。漂泊の旅に出ます。

だのに、こんな艶っぽいエピがある(^^;;)

無論、西行水も西行鼓ヶ滝も、エピとしては、かなりベタなので、そのまま盛り込む、
という訳ではないでしょう。

しかし、このようなエピソードに包まれる西行という人物を、奥深く描くとしたら、
面白いと思います(^^)

演じるとしたら、どなたでしょう?
「ちりとてちん」人事なら、放っておいても女が寄ってくる設定の徒然亭四草役の
加藤虎ノ介さんでしょう。

他には、現・大河で、東行と号する高杉晋作役の伊勢谷友介さんも、面白いと思います。

 そうそう、伊勢谷友介さんは、「スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ」で義経役を演じています。
 アレを源平物にくくっていいのか、分かりませんけど(笑)
 ちなみに、清盛は、佐藤浩市さんが演じてます♪


花の下にて春死なむ、と望むのは・・・誰になるでしょう?056.gif
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by salieri777 | 2010-09-24 22:41 | ニホンのレキシ♪
心はすっかり、2012年です(笑)

さて、昨日は、大河ドラマ「平清盛」の時代の範疇に入ってくる、崇徳院の命日だったとか。

崇徳院についての説明は、wikiでどうぞ(リンクも貼らずに/貼れずに、丸投げかよっ!) 

大河ドラマ「平清盛」が、どう描かれるのか、今は妄想の段階でしかないのですが、

白河天皇→鳥羽上皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇 の括りでいけば、

素通りはしないと思うのですが(^^;) 保元の乱の発起人(?)ですし。

  注;保元の乱は、崇徳派と後白河派の権力争い

崇徳天皇は、鳥羽天皇の第一皇子。フツーなら順当な皇位継承者な訳ですが・・・

崇徳院の母は、祖父・白河天皇が寵愛した女性を鳥羽帝に譲り渡した経緯があります。

鳥羽天皇、崇徳院の父は祖父の白河天皇の子ではないかと疑念を持ちます。

ここで、確執が産み出され、鳥羽上皇の死のあと、権力争いが勃発するわけです。

ここいらの、ドロドロの人間模様もしっかり描けば、見応えのあるセクションになると思います。

し~か~も、崇徳院と言えば、あの名高い、

  「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
       われても末に あはむとぞ思ふ 」 と詠んだ歌があります。

朝ドラ「ちりとてちん」でも登場した、落語「崇徳院」の起源であります。

「ちりとてちん」の脚本を書かれた方が、このドストライクな題材をスルーするとは、

まったく思えないのですが・・・

このところ、大胆に(苦笑)史実の重要人物が省略(^^;)されちゃう傾向がある大河ドラマ。

史実スキーにとっても、ドラマスキーにとっても、心から堪能できる大河ドラマに・・・

 会わんとぞ、願う!(切実)

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by salieri777 | 2010-08-27 00:12 | ニホンのレキシ♪
大河ドラマ「龍馬伝」は、全48甲斐なのですね。
そうですよね~、年末には「坂の上の雲」第二部がありますものね♪
「坂の上の雲」のクライマックスは、第三部の日露戦争でしょう(たぶん)

ところで、日露戦争と言えば、
 坂本龍馬(爆)

幕末スキーの方なら、ご存知でしょうが、坂本龍馬は、かつては忘れ去られた存在でした。
「龍馬伝」の冒頭で、「こういう人物が土佐にいたとか・・・」的な扱いを思い出してください。
幕府が瓦解し、薩長の新政府が軌道に乗った時、
功労のあった、土佐はなんとなく、蚊帳の外になりました。
これじゃ、良くないですろ!と土佐の人は思うちょりましたきにぃ~(怪しい土佐弁)

時は、日露戦争真っ只中、大国ロシア相手に勝てるのだろうか?
不安に思う人々が多かったのですが・・・
そこへ、新聞一面で「明治帝皇后の夢枕に白装束の人現る!『日本の勝利』を予言!」(^^;)

記事では、皇后の夢枕に白装束の男が現れ、「日本軍の勝利」を断言したとか。
皇后は、侍従に、この者が誰かを訪ねた時、その白装束の家紋から、
土佐の坂本龍馬だ!となって、上記の記事が(笑)
でも、この記事に、日本人は励まされたようです。
しかも、本当に日本軍、勝っちゃいました(^^;)

そこで、一度は忘れ去られた、坂本龍馬という人物が
クロズアップされるきっかけとなったのです。

司馬遼太郎先生は、「そんな、人の夢枕に立つほど、趣味が悪いことはしないだろう」(苦笑)と、
この話を一蹴。当時、薩長に水を開けられていた土佐陣営の起死回生の作戦とされています。
というか、誰が、話を捏造したかも判明しております(^^;)

さて、「坂の上の雲」の日露戦争は、第三部、つまり来年らしいです。
どうですろ、フクヤマ龍馬に再登場してもらうのは?(笑)

司馬センセイの意見はともかく、実際の坂本龍馬、
こんな胡散臭いこと、喜んでやってくれそうな気がします(爆)

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by salieri777 | 2010-01-20 15:17 | ニホンのレキシ♪