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武田軍の足軽大将リューザキ弾正、通称リュー弾♪またの名をカラボリーナ・ドルイスカヤ(爆)最近、草弾師匠という官位(笑)も授かりました☆ 諸国、諸時代、諸かるちゃーを 徒然なるままへめぐります


by リューザキ弾正
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大鳥圭介だよっ!全員集合 (゜∀゜;ノ)ノ

大鳥圭介だよっ!全員集合 (゜∀゜;ノ)ノ _f0182920_17581.jpg

 弥太郎目線の「龍馬伝」・・・
 どうも、もどかしい(言っちゃった!)
 だったら、幕末・明治を生き抜いたこの人、大鳥圭介の
 「ケースケ伝」をやって欲しい!(切望)
 明治においても最前線で活動した人だから、
 回想方式による視点のブレはないだろうし、
 弥太郎の妄想が混入することもない・・・(^^;) 


「大鳥圭介
 威ありて、猛からず」
 高崎哲郎・著
 鹿島出版会


播州の医者の息子に生まれた大鳥圭介は、大阪・適塾で緒方洪庵に学び、
江戸に出た後は、兵学工学等近代技術を学びます。
しかし、時代は風雲急を告げる、幕末動乱。
圭介は、幕府瓦解の折りも、自分に学びの機会を与えてくれた幕府の恩顧に
報いるため、旧幕府軍に身を投じ、各地を転戦、やがて、五稜郭へ・・・


ここまでが、大鳥圭介の人生の前半戦です。
「大鳥圭介 南柯の夢」を執筆した、河上徹太郎(圭介の孫娘の夫)は、
彼は、ここで死ぬべきだった、と断罪しています。
ちなみに、河上徹太郎さんについては コチラを参照のこと(笑)


この評伝の著者は、明治における、大鳥圭介のテクノクラート(技術官僚)としての功績を、
評価したかったようです。
「ようです」と微妙な言い回しは、この本では、
その部分が成功しているとは思えないからです。
前半部分も、ザックリ紹介に終始し、後半テクノクラートとしての部分も中途半端。
終盤の外交官としての日清戦争開戦前夜の大鳥の働きについてもイマイチすっぽ抜け。


ですが、一応全体の流れを掴むのにはいいかもしれません。
江戸に出てきたら、いきなり、安政の大地震。
戊辰戦争、従軍では、道に迷いまくり、
食べた川魚や貝類で、サナダムシに悩まされ、
五稜郭の戦い、攻める薩長軍総督はかつての教え子・黒田了介。
降伏後、投降された牢獄は自分が翻訳して設計を書いた牢獄(爆)
学習院の院長時代には、宮内府の役人と「口論やがて格闘」(^^;)で、クビ。
最晩年、国府津の別荘が高波で瓦解、その下敷きになりながらも自力で脱出!
抜け落ちたエピソードもありますが、こういった有名エピも載っております。


一番のエピソードは、明治においてはさしたる働きを見せなかった/見せれなかった、
勝海舟の死を、台湾にいる長男・富士太郎に手紙で告げるのですが、その文面!
 「勝老人去る。 

 法螺の大将軍 
を失い候」(爆)

 言っちゃったよ~(涙目) まぁ、幕府瓦解の時、恭順派だった、勝海舟。
徹底抗戦派だった、大鳥圭介。お互い、含むところはあったでしょうが。。。
主戦派だった、大鳥は才能と知識を惜しまれ、明治近代化の一助に人肌脱ぎますが、
勝海舟は、薩長藩閥政治から思った程の高い地位を貰えず、結局一線を画します。
その後、勝海舟は思い出話を喧伝するのですが・・・全部自分の手柄!(^^;)
(これが、勝海舟の評価を難しくしてますね~)


 榎本武揚、大鳥圭介。旧幕府軍として五稜郭で戦い、投降。
その後、明治政府の中で要職を歴任した彼らに良い評価を与えてない人もいます。
しかし、江戸幕府によって得た人脈・知識・育んだ才能を彼らが、発揮し続けたことで、
江戸幕府は、日本近代化の基盤を造っていたんだぜ、という彼らの気概を私は感じます。
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今、リューザキ弾正が住んでいる町は、
かつて、明治の元勲・文人墨客の週末の別荘として、栄えた時期がございました。

大鳥圭介も、工学部で、バリバリ働いていた頃、この町に別邸を建てております。
(注:湘南大海嘯で被害に遭った、国府津の別荘とは、違います)
かつて、丘の上の別荘跡地を訪ねた折り、現在の所有者の御好意で、
敷地に入らせていただきました。

と、↑ この話は、結構アチコチで語らせていただいておりますが(^^;)
今回、この圭介本を読んで吃驚したのが・・・
私の人生は常に大鳥圭介と共にある(爆)、と判明したことでした。

幕府のフランス式訓練所、通称・太田陣屋が置かれた、横浜市中区には、太田町があります。
私は、今までそこに陣屋があるのだろうと思っていたら・・・
太田陣屋の所在地として挙がっている旧・太田村としての三つの町名のうち、
(隣り合っており、それらと現在の太田町を含めて、「太田村」だったのかもしれません)
そのひとつが、リューザキ弾正の生誕地(爆) そして、母・弾正の実家があった場所でした。
母・弾正一家は、当初、横浜の中心地に住んでおりましたが、
横浜大空襲で焼け出された後、当該地に引っ越しております。

そして、戊辰戦争の折り、宇都宮城の戦い直前の御料隊の宿営地が置かれた場所が、
父方の祖父の在所でした。
父方の実家は豪農だったとのことで、何かしら食糧供出などしていたかも・・・(憶測)
(この合戦で、土方歳三さんは、負傷・・・宇都宮城も陥落。。。涙)

・・・そして、現在住んでいるのが、明治期中盤に圭介の別荘があった場所。


運命の赤い糸を感じずにはいられません(笑)

by salieri777 | 2010-04-06 11:22 | 乱読積読文庫